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大阪地方裁判所 平成6年(ワ)11530号 判決

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

斉藤浩

武田純

被告

株式会社栗本鐵工所

右代表者代表取締役

乙山次郎

右訴訟代理人弁護士

榊原正毅

榊原恭子

被告

末広工業こと丙川三郎

右訴訟代理人弁護士

松田繁三

主文

一  被告末広工業こと丙川三郎は、原告に対し、金二七万八三五二円を支払え。

二  原告の被告末広工業こと丙川三郎に対するその余の請求をいずれも棄却する。

三  原告の被告株式会社栗本鐵工所に対する請求を棄却する。

四  訴訟費用は、原告の負担とする。

五  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

1  被告らは、原告に対し、連帯して二三九九万四〇一〇円及びこれに対する平成四年一一月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告末広工業こと丙川三郎が平成六年六月五日原告に対してなした解雇が無効であることを確認する。

3  被告末広工業こと丙川三郎は、原告に対し、平成六年六月六日以降毎月金二七万八三五二円を支払え。

4  被告末広工業こと丙川三郎は、原告に対し、金一〇〇万円及びこれに対する平成六年六月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  前提事実(当事者間に争いのない事実及び証拠上容易に認定できる事実)

1  当事者

原告は、平成三年三月一三日ころから、被告末広工業こと丙川三郎(以下「被告丙川」という。)に雇用される従業員であった。

被告株式会社栗本鐵工所(以下「被告会社」という。)は、鋳鉄管の製造、販売等を業とする会社であり、被告丙川は、被告会社工場内において被告会社の金属溶接、足場架設工事等の作業に従事する協力業者である。

被告丙川は、被告会社から本来の業務である足場架設工事等を請け負う場合には、自ら又は現場監督であるAを通じて従業員を指揮監督し、作業に従事させていたが、それ以外に被告会社からの要請に応じて、適宜、従業員を派遣し、これを被告会社の指揮監督の下で被告会社の作業に従事させていた(以上、〈証拠・人証略〉、弁論の全趣旨)。

2  本件事故の発生

原告は、平成四年一一月二三日朝、前記Aから、被告会社の加賀屋工場に赴き、被告会社の指揮監督の下に、排水ポンプ五台及びバルブ五台を天井クレーンを利用して運搬する作業に従事するよう指示を受けた。原告は、同日午前八時ころ、被告会社の加賀屋工場の作業現場である工場床に到着し、間もなく、前記作業に従事し、同日一〇時四〇分ころ、右排水ポンプ三台及びバルブ三台の運搬作業が終了したので、残り各二台分の作業をするために、工場床と呼ばれる平面から約一メートル六〇センチ上方に設けられていた炉前床の転落防止用の手すり(これは、炉前床からの転落を防止する目的で、炉前床の周囲に、高さ一メートル一〇センチの状態で設けられていた。)に架けられていた長さ二メートル四五センチの梯子を伝って右炉前床へ上がろうとした。右梯子は、炉前床の前記手すり部分に鉤形の金具で引っかけてあり、その下部は工場床から約一メートル八センチ離れていて、工場床と固定されない、宙づりの状態であった(なお、右梯子の位置については、別紙〈略〉見取図〈1〉部分である。右付近の状況、梯子の詳細、梯子の回転の状況等については、右別紙見取図のその余の部分を参照)。原告は、既に運搬済みの排水ポンプを踏み台にして右梯子を昇り、右手すり部分に差しかかったところ、その瞬間、梯子の重心が炉前床側へ移動したため、突然右梯子が手すりを軸にする形で回転し、原告は、前のめりの状態で梯子もろとも、前方の炉前床上へ強く投げだされて、その付近にあったスイッチボックスに右肩を強く打ちつけ、その反動で左前方へ転落した。原告は、その際、梯子を掴んでいた左手の示指を梯子の先端と炉前床のコンクリートの間で強く挟み、また、左膝をコンクリートで強打した(以上、争いのない事実、〈証拠・人証略〉、弁論の全趣旨)。

3  原告の受傷(〈証拠略〉)

(一) 本件事故により、原告は、(1)左手示指末節骨骨折・挫滅創、(2)右外傷性肩峰下滑液包含炎、左膝内障、左踵骨付着部炎の各傷害を負い、そのため阪和泉北病院で平成五年六月一日から同六年六月四日まで通院治療(うち平成五年六月一六日から同年七月四日まで入院治療)を、大阪厚生年金病院で平成五年一〇月六日から同六年六月一〇日まで通院治療(うち平成五年一二月八日から同二〇日まで入院治療)をそれぞれ受けた後、平成六年六月四日に右(1)の傷害につき阪和泉北病院で、同年六月一〇日に右(2)の傷害につき大阪厚生年金病院で、それぞれ右各傷害の症状固定の診断を受けた。

(二) 原告には、右症状固定後、次のような後遺障害が残った。

(1) 階段昇降時の膝内側部痛、和式トイレで五分間以上屈が(ママ)めない、正座できないなど左膝部の後遺障害

(2) 重荷を下げたり、投球動作といった過大な負荷をかけた際の痛感やしびれなどの右肩部の後遺障害

(3) 左手示指の短縮・変形、示指末節部の痛みと知覚障害、示指の可動制限などの左手示指の後遺障害

(4) 歩行時や荷重時に疼通(ママ)が持続するという左踵部の後遺障害

4  原告解雇に至る経緯(争いのない事実、〈証拠・人証略〉、弁論の全趣旨)

(一) 被告丙川は、原告の平成三年七月分から同年一二月分の給料、賞与について、賃金台帳に約五三万円の水増記載をしていたところ、平成四年一月ころ、原告から右の点を指摘された。

(二) 被告丙川は、平成四年一月二九日、原告に対し、右水増の事実を全面的に認め、今後同様の行為をしないこと、被告丙川が再び右行為に及んだときは原告に対し損害金等を支払う旨の念書を作成し、さらに平成四年二月四日、被告丙川は原告に右と同内容の確定日付ある念書を作成し、かつ、金一二〇万円を原告に貸し付けた形にして、同年二月から毎月末日限り五万円宛支払う旨合意し、同日、右合意に基づき公正証書を作成した。なお、被告丙川は、右五万円の支払については、平成四年二月二九日に同月分を支払ったが、その後は支払をしていない。

5  原告の解雇(当事者間に争いがない。)

被告丙川は、平成六年六月五日、原告に対し、解雇予告手当として三五万円を提供して解雇の意思表示をした(以下「本件解雇」という。)。その際原告は、右解雇予告手当を受領せず、その後も被告丙川から右支払を受けていない。

6  労災認定及び支給金の交付(〈証拠略〉、弁論の全趣旨)

原告は、症状固定後の後遺障害につき平成六年八月一二日、障害等級一〇級の認定を受け、障害一時金・障害特別支給金・障害特別一時金として四六三万八五三六円の支給を受けた。また、本件事故後三日目までの休業補償として、被告丙川から二万四九七〇円の支払を受け、本件事故後四日目から平成六年六月一〇日までの休業期間に対応する休業補償として五六三万六六一六円の支給を受けた。

二  争点

1  被告らの安全配慮義務違反ないし注意義務違反の存否

2  本件事故による原告の損害

3  本件解雇の効力及び右解雇の不法行為性

三  争点に関する当事者の主張

1  被告らの安全配慮義務違反ないし注意義務違反の存否(争点1)について

(一) 原告の主張

被告らには、本件事故につき、次のような安全配慮義務違反ないし注意義務違反がある。

(1) 被告会社について

ア 被告会社は、原告が前記工場床において作業するに当たり、安全に炉前床部分へ昇降できる設備を設置すべき注意義務があったにもかかわらずこれを怠り、かえって事故発生の危険のある梯子を設置していた。

イ 被告会社は、原告を前記作業に従事させるに当たって、事前に炉前床への昇降方法等について点検し、前記梯子は危険であるから使用しないようにとの指示をなすべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠り原告に対し、右指示をしなかった。原告は通路の存在を知らなかった。また、本件事故現場は、原告にとって初めての場所であり、しかも、事故当時かなり暗く、梯子の状態を正確に判断できる状況ではなかった。

(2) 被告丙川について

被告丙川は、原告に工場内での作業を命ずるに当たり、事前に本件事故現場を視察し、昇降方法等について点検し、前記梯子は危険であるから使用しないようにとの指示をなすべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠り、原告に右指示をしなかった。

(二) 被告らの主張

(1) 被告会社の現場監督責任者Tが、工場床と炉前床との間の昇降は通路を迂回すべき旨を原告に対して指示しているから、被告らは前記注意義務を尽くしていたものである。

(2) 安全に工場床と炉前床との間を昇降できる設備として、前記通路が設置されていた。

(3) また、前記梯子は、炉前床に設けられた手すりに引っかけられていたもので、工場床から一メートル以上上方に離れて宙吊りの状態であったこと、現場の電灯は点灯され、工場の天井には明かりとりの窓も存在し、梯子の状態を正確に判断できる状況にあったこと、したがって、仮に人が登っていけば重心が上方に移るにつれて、回転し、転落の危険があることは容易に想定しうる状況であった。

したがって、何人も前記梯子を昇降用に使用すべきでないことは明らかであり、本件事故は、専ら原告の無謀な行為によって引き起こされたものであるので、被告らには何らの責任がない。

2  本件事故による原告の損害(争点2)について

(一) 原告の主張

原告は、本件事故により以下の損害を被った。

(1) 休業損害 七〇一万三七七四円

原告の本件事故直前一年間の一日当たりの平均賃金は、一万五一二六円であり(原告の本件事故直前一年間の給与支給合計額四五七万五六六〇円を右一年間の実労働日数三〇二・五で除したもの)、原告の休業期間内の推定休業日数は、四六三・六九日であるから、原告の休業損害は右金額となる(円未満切り捨て。以下同じ。)。

15,126÷365×463.69=7,013,774円

(2) 賞与カット分 七四万三〇五〇円

平成四年冬期未払分が一六万五五五〇円、平成五年夏期分が二八万八七五〇円、同冬期分が二八万八七五〇円であるから、賞与カット分の総額は右金額となる。

(3) 入通院慰謝料 一四五万円

原告は、本件事故により阪和泉北病院で平成五年六月一六日から同年七月四日まで、厚生年金病院で同年一二月八日から同月二〇日まで、それぞれ入院治療し、また、平成四年一一月二四日から同六年六月一〇日まで通院治療していた。右期間に対応する慰謝料としては、入院分につき三〇万円、通院分(入院期間分を除く。)につき一一五万円が相当であり、これらを合計すれば、右金額となる。

(4) 入院雑費 五万円

(5) 後遺症慰謝料 四四〇万円

本件事故による後遺症により原告が被った精神的苦痛を慰謝するには右金額が相当である。

(6) 逸失利益 一七六三万七三〇八円

原告は、症状固定時で四九歳であり、平均労働可能年数六三歳までの期間に対応する新ホフマン係数を一二・六〇三、原告の事故直前の一年間の給与及び賞与の合計額五一八万三一六〇円、前記障害等級一〇級に対応する労働能力喪失率二七パーセントとして計算すると、原告の逸失利益は右金額となる。

5,183,160×0.27×12.603=17,637,308円

(7) 弁護士費用 三〇〇万円

(8) 原告の損害総額 三四二九万四一三二円

右(1)から(7)までの金額を合計すると、原告の損害の総額は、右金額となる。

(9) 原告の請求額 二三九九万四〇一〇円

(8)から前記既払支給分を控除すれば、原告の請求額は右金額となる。

(二) 被告らの主張

原告の損害額は争う。

3  本件解雇の効力及び右解雇の不法行為性(争点3)について

(一) 被告丙川の主張

(1) 前記念書の交付、金員貸付及び公正証書の作成は、原告が被告丙川の賃金台帳の水増記載の事実に目をつけ、これを材料に、被告丙川を脅迫し、その意に反してなさしめたものである。また、原告は、平成六年五月二八日及び同年六月五日にも、右公正証書等を利用して被告丙川を脅迫した。

このように、原告は、被告丙川に対し執拗に脅迫行為・不当要求を繰り返し、社会秩序に反する違法行為に及んだものであり、被告丙川が原告との間に労働契約を継続していくことが著しく困難であることは明白であるから、本件解雇は有効である。

(2) このように、本件解雇は、適法かつ有効になされており、右解雇により被告丙川に不法行為責任が生ずることはない。

(3) 仮に本件解雇意思表示の際、原告が予告手当相当額を受領しなかったことにより即時解雇としての効力を生じないとしても、右解雇意思表示から三〇日の経過により、右解雇は有効となったものであるから、いずれにしても本件解雇の適法性・有効性は明白であり、被告丙川に不法行為責任はない。

(二) 原告の主張

(1) 原告が被告丙川を脅迫して公正証書の作成等をさせたとの点は、否認する。原告が被告丙川に水増記載の点を問いただしたところ、被告丙川は、水増の事実を認めた上、妻にばれては困るということで被告丙川の方から毎月五万円を支払うことで話をつけようと持ちかけてきたものである。原告としては自分には損害賠償を請求する権利があると思っており、雇主である被告丙川との円滑な関係を考慮し、これに応じたにすぎない。

念書にしても、今後このような不正行為が起きないようにとの考慮から作成したにすぎず、公正証書も示談が成立した以上、書面化しておこうと思ったまでのことである。

本件解雇は、解雇事由がないにもかかわらず、本件事故により原告が作業能力に支障を来したのを幸いに、水増記載の事実を知る原告を職場から排除しようとしてなされたものであるから、解雇権の濫用に当たり違法・無効である。

(2) 本件解雇は違法であって、被告丙川の不法行為により、原告は多大の精神的苦痛を被った。これを慰謝するには、一〇〇万円を下らない。

第三当裁判所の判断

1  被告らの安全配慮義務違反ないし注意義務違反の存否(争点1)について

(一)  当事者間に争いのない事実及び証拠(〈証拠・人証略〉)並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(1) 被告会社は、本件事故当時、作業員が前記工場床において作業するに当たり、炉前床部分へ昇降するための設備として、前記通路を設置しており(採光に問題がなければ、工場床から十分存在が確認できる位置に存在している。)、右通路自体の安全性について特段問題がなかった。

(2) 前記Tは、作業開始に当たり、本件事故現場付近にある照明を点灯していた。また、本件事故現場の工場には、天井の明かり取りの窓が存在していた。その結果、工場内は、平均三〇〇ルクス以上の照度があった。

(3) 原告は、本件事故前に、右Tから、クレーンでポンプ等を運搬する作業の内容・手順等につき、作業手順に沿って右通路等を歩きながら一応の説明を受けていた。

(二)  右事実によれば、被告会社は、十分な昇降設備を設置していたこと(本件事故現場には十分な採光があり、したがって、被告会社が設置していた右通路は、本件事故現場下の工場床から肉眼で観察しても一見して昇降設備と確認できたことが明らかである。)、また、被告会社及び被告丙川は右Tを通じて、原告に対し右通路の存在等を示しながら本件作業の手順・安全管理等に関する説明を一応していたものであることが認められるから、これらの点の義務違反をいう原告の主張には理由がない。

(三)(1)  もっとも、右(人証略)の証言によれば、本件事故当時、前記梯子の存在をT自身気づいていなかったことが認められ、したがって、右Tが原告に対し、右梯子を昇らないように注意しなかったことが認められる。

前記のとおり、本件梯子は、工場床から一メートル以上上方に宙吊りの状態であり、転落防止用の柵の手すり部分に架けられていたこと、本件事故現場付近には、被告会社設置に係る安全な昇降用通路が存在していたこと、本件事故現場の照度は、平均三〇〇ルクス以上あって、採光状態は悪くなく、原告は右Tから作業手順等についての一応説明も受けていたこと、右梯子が掛かっている手すり部分より上に昇れば、当然重心が炉前床側へ移動し右手すりを軸にして梯子が回転し転落することになることは原告自身においても容易に予想できたことが認められる。

しかしながら、原告は、危険を顧みず、前記のとおり、排水ポンプを踏み台にして、敢えて右梯子を昇り、右梯子が架かっている転落防止用の柵の手すり部分を乗り越えようとしたのである。すなわち、本件事故当時右梯子が昇降用のものでないことは何人にとっても一見して明らかであったにもかかわらず、原告は、敢えて右梯子に昇り、前記手すり部分を乗り越えようとしたため、本件事故に遭遇したといえるのである。

(2)  ところで、およそ使用者(事実上の使用従属関係に基づき従業員等に対し信義則上その安全につき配慮すべき立場にある者を含む。以下「使用者等」という。)は、自己の指揮・監督の及ぶ範囲内において職務に従事する者に対しては、右範囲内に存する危険等に対し人的・物的に安全対策面で十分な措置を講ずる義務があるものというべきであり、使用方法や使用態様如何によっては危険を生ずるおそれのある物については危険発生防止のため、正しい使用方法について指示説明し、誤った使用をしないように注意し、場合によっては右危険物を除去すべき義務があるものと解される。しかしながら、右使用者等に要求される指示説明ないし除去義務といっても、もとより、あらゆる場合に要求されるものではなく、公平の見地から合理的な範囲内に限定されるものというべきであって、使用者等において、従業員等が通常予測しえない使用方法・態様に出ることまでを想定して、右指示説明等の、安全のための措置を講ずるべき義務はないというべきである。

これを本件についてみるに、前記のとおり本件梯子が昇降用のものでないことは一見して明らかであり、他に安全な通路が存在していたのにもかかわらず、原告は、右梯子に昇って、梯子が掛かっている手すり部分を乗り越えようとしたものであるから、原告の右使用方法・態様は使用者等の通常予測しえない、無謀にして、異常なものということができる。したがって、原告のかかる行為により、原告に損害が生じたとしても、それは、専ら原告が招来したというべきであるから、これによって生じた損害につき、被告らが安全配慮義務ないし注意義務違反に基づく責任を問われるべき理由はないということができる。

(3)  よって、前記Tが作業の開始に際し、原告に対し梯子に昇らないよう注意せず、あるいは、右梯子を撤去していなかった点を捉えて義務違反があるということはできない。

(四)  したがって、右義務違反を前提とする原告の請求は、争点2について判断をするまでもなく、理由がない。

2  本件解雇の効力及び右解雇に基づく不法行為責任(争点3)について

(一)  前記前提事実、当事者間に争いのない事実及び証拠(〈証拠・人証略〉)並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(1) 原告は、平成四年一月ころ、平成三年度の年末調整に際し、原告の同年度の源泉徴収票に記載の給与支払総額が毎月の給与支払明細書記載の給与支払額の合計額より約五三万円多くなっていたことを発見し、そのころ、被告丙川に対し、被告丙川が賃金台帳(〈証拠略〉)に水増記載をしたことを指摘して、苦情を述べたが、原告は、その後、被告丙川の元へ何度となく訪れては、右事実を摘示して、「これ、公文書偽造ですよ。」「このまんまだと、商売できんようになりまっせ。」「なんぼで手を打つ。」などと脅迫した。

(2) 被告丙川が原告の右脅迫に対し、持ち合わせの一四、五万円でどうかと言ったところ、原告は、少しドスの効いた声で「子供じゃないんだから。」「相手が悪いわ。」などと言った。

(3) 被告丙川は、当時金銭管理を妻に任せていたため、妻に知られない範囲内で何とかしようと考え、自分のポケットマネーで月々五万円なら、何とかなる旨答えたところ、原告は、二年間分として一二〇万円を要求してきた。被告丙川は、長年にわたって築いてきた被告会社との信頼関係等の営業上の利益が原告の右不正経理事実の吹聴により失われることを恐れ、結局、原告の右要求に応じることにした。

(4) 被告丙川は、署名捺印して、平成四年一月二九日に、右水増の事実を全面的に認め、今後同様の行為をしないこと、被告丙川が再び右行為に及んだときは原告に対し損害金等を支払う旨の念書(〈証拠略〉)を作成したが、右念書の本文は、原告作成に係るものであった。原告は、その後、更に右文書内容に表現等でまずい点があるなどと言って、被告丙川に対し、本文・署名とも直筆の念書を作成するよう要求した。被告丙川は、結局これに応じて、右同日付けで、本文・署名とも、その直筆に係る念書(〈証拠略〉)を作成した(なお、右念書については、同年二月四日、後記公正証書作成日に、原告が確定日付をとっている。)。また、原告は、当初からしきりに、原告に前記(3)の合意内容を公正証書にすることを要求していたが、被告丙川は、やむなく、同年二月四日、金一二〇万円を原告に貸し付けた形にして、同年二月から毎月末日限り五万円宛支払う旨合意し、同日、その旨の内容の公正証書を作成し、被告丙川は、平成四年二月二九日、原告に対し、第一回目の平成四年二月分の五万円を支払った。

(5) しかし、被告丙川は、このまま原告の要求に屈伏した状態が続けば、原告と同様に作業している他の従業員等の手前、好ましくない事態になると考え直し、平成四年三月分からは右支払に応じなかった。

(6) 右三月分の支払がないことを知った原告は、同年四月上旬ころ、被告丙川の元にやって来て、「丙川さん、強制執行の手続をとっていいんですな。」と言った。被告丙川は、腹を括って、「あんた何やってるのか分かっているのか。刑事事件を犯しているんやで。」「ぼくのところは税金を誤魔化したから、追徴金を払わなければいかんやろうけど、あんた手が後ろに回るよ。」「脅し文句を並べてゆすってきたやろう。」と言ったところ、原告は、「ゆすりとは何や。」と反論したが、被告丙川が「これをゆすり言うんや。」と言ったところ、黙って出ていってしまった。その後、本件事故の前後を通して、しばらくの間、原告から何らの請求もされなかった。

(7) ところが、平成六年五月二八日、原告が労災関係書類に被告丙川の証明をもらうために同事務所に来た際、原告は、持参していた前記公正証書を取り出し、「これは、お互いの合意の上で作ったものですから。」などと言ってきた。被告丙川は、「そんなもん、どっちみち脅しの材料やないか。」と言ったところ、原告は、「そんなこと言うてへん、言うてへん。言うた言わんは証拠にならへん。」などと反論した。被告丙川が「これ(公正証書)を正当化するということは、ゆすりを続行することやで。」と戒めようとすると、原告は、「おっと、待った。今言うたこと、もう一遍言って。」と言いながら、被告丙川の言動を紙に書き留めて証拠に残そうとする仕種をした上、さらに、二年前の議論を蒸し返すべく源泉徴収票の二枚のコピーを持ち出し、「これは、どういうことや。」などと詰め寄ってきた。被告丙川は、今後、いつこの問題をまた蒸し返されてしまうか分からないと考え、「もう、ええ。」「五〇万やるから辞めてくれないか。」と言った。原告は、「自分の胸三寸や。」と言った後、帰り際に、「ピンはねするな。」と言い残して去っていった。

(8) 被告丙川は、やはり原告には辞めてもらうしかないと思い、平成四年六月五日に原告が被告丙川の事務所に来た際に、一か月の解雇予告手当分として、三五万円を提示して原告に対し、前記のとおり解雇の意思表示をした。なお、右六月五日及びその後の同年九月七日に原告が被告丙川の事務所に来たときに、被告丙川は、前記(6)で原告が「言った、言わないは証拠にならない」旨の言動があったため、証拠を残すために原告とのやり取りをテープで録音しておいた。

以上の事実が認められる。

(二)  もっとも、これに対し、原告は、月五万円の支払は被告丙川の方から持ちかけてきたものであり、原告としては、当時自己に損害賠償を請求する権利があると思っており、雇主である被告丙川との円滑な関係をも考慮してこれに応じたにすぎない、また、念書にしても今後このような不為(ママ)が起きないようにとの考慮から作成したにすぎず、公正証書も示談が成立した以上、書面化しておこうと思っただけである旨主張するが、前記のとおり被告丙川の不正行為は経理上のもので原告に減給等の実害が生じたものでないこと、にもかかわらず原告は自ら総額一二〇万円もの多額の金員を要求しており、現に一度目の支払を受けていること、右要求過程に表れた行為態様も計画的・執拗であることなどからすれば、原告が被告丙川に対し金員を要求した背景として、右原告主張の動機等が存したものとしても、これらはいずれも右行為当時に原告が被告丙川に対し恐喝の意図をも有していたことを否定し去るに足るものではないから、これのみでは前記認定を覆すに足りないというべきである。

また、原告は、その他にも、平成四年二月四日の公正証書作成直後に被告丙川が原告と飲食をともにしていたことや、その後も被告丙川が不正経理に係る帳簿の是正措置をとっていないことなどをもって、被告丙川がむしろ原告を懐柔して口止めを図ろうとした旨主張し、また、公正証書に係る金員につき一度支払を受けたのみで強制執行等に及んでいないことや、逆にいとも簡単に被告丙川が右約束を反故にしていることなどをもって、実質的に恐喝行為と評価しうる行為はなかった旨主張するが、当初被告丙川としては、被告会社との信頼関係等を維持するため原告に対し強気な姿勢をとれずにいたものの、前記のとおりこのままの状態では良くないと改心し、原告からの支払を拒むに至った経緯が存在するのであるから、右経緯を考慮すれば、飲食や約束反故の点につき右被告丙川の態度自体不自然とはいえず、これに(ママ)のみでは前記認定を覆すに足りないし、帳簿を是正しなかった点も、被告丙川本人尋問によれば、事務手続上の不手際だった可能性が示唆されており、また、強制執行に及ばなかった点についても、前記のとおり被告丙川から一転して強気の態度を見せられた原告が今度は自分の弱みを突かれた恰好となり引き下がってしまった可能性が高いことに鑑みると、いずれも前記認定を覆すには足りないというべきである。

(三)  以上によれば、原告は、平成四年一月末ころから同年二月下旬までの間に執拗に被告丙川を脅迫して、金員の支払等を内容とする前記念書及び公正証書を作成させるなどしたこと、また、平成六年五月二八日には再び右公正証書等を持ち出して被告丙川を脅迫するなどしたことが認められる。これによれば、原告は、被告丙川の不正経理の事実を知るや、その弱みにつけ込んで、執拗に金員の支払を強要するなどしたものであって、被告丙川にも非があるとはいえ、悪質であって、これは刑事法にも触れる違法行為であり、雇用契約上も、使用者との信頼関係を根底から動揺させるものである。それゆえ、ここに至って、被告丙川が原告との労働契約関係を継続することができないとして、本件解雇をしたのは相当であるというべきである。したがって、本件解雇は、適法・有効になされたものということができる。

よって、本件解雇の違法・無効を前提とする原告の請求は理由がない。(なお、前記のとおり、原告は、本件解雇の際、被告丙川から解雇予告手当を受領していないことが認められるところ、予告手当の支払なくしてなされた解雇は即時解雇としての効力を生じないが、使用者が即時解雇に固執する趣旨でないときは、右解雇の意思表示から三〇日が経過した時点で効力を生ずるものと解すべきであり、本件において、被告丙川は即時解雇に固執しない趣旨であると認められるから、本件解雇は、即時解雇としての効力はないが、右解雇の意思表示から三〇日の経過により解雇としての効力を生ずるに至ったものということができる。)

3  以上の次第で、原告の請求のうち、被告丙川に対する請求は、本件解雇の意思表示から三〇日分の賃金請求の限度(〈証拠略〉及び弁論の全趣旨によれば、右は原告請求の二七万八三五二円を下らないことが認められる。)で理由があるので、右限度でこれを認容し、その余は失当であるから、これを棄却し、被告株式会社栗本鐵工所に対する請求は理由がないので、これを棄却する。

(裁判長裁判官 中路義彦 裁判官 竹中邦夫 裁判官 仙波啓孝)

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